ハコベの前身、かもめサポートはミニコミ誌「かもサポ通信」を月に一回発行しています。
「かもサポ通信」に表現される様々な想いは、「ハコベ」の活動と切り離すことができません。
ここではその一部をご紹介していきます。

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2025年5月24日発行 No.96 より

2025年5月24日発行 No.96 より

2025年4月26日発行 No.95 より

【2025年3月22日発行 No.94 より】

 今年も3月11日が過ぎました。2011年3月11日の東日本大震災から早くも14年の歳月が流れました。福島第一原子力発電所のメルトダウン事故は未だ現在進行形で継続しており、収束の見通しさえつきません。政府は、今年 2 月、第 7 次エネルギー基本計画を閣議決定し、2011年以降「計画」に記載され続けてきた「可能な限り原発の依存度を低減する」という文言を削除し、原発推進政策を「復活」させました。とても、とても、正気の沙汰とは思えません。あらゆる事実、あらゆる知見、あらゆる教訓、あらゆる人間の良心...そういったものが暗闇の中を照らす一筋の光のように、灯台のように私たちの歩むべき道を指し示して欲しい。でも、多くの心ある人々のそんな願いや祈りは、踏みにじられ嘲笑され、ないことにされます。人間とはなんと救いがたい、愚かな生きものなのでしょう。かつて、水俣病を世に知らしめ告発し続けてきた水俣の闘士、故川本輝夫氏は「熱意とは事ある毎に意志を表明すること」と述べました。現代は、まるで悪魔のような、暗い熱意だけがはびこっている時代です。それでも川本氏のように人間の良心としての熱意・意志を表明し続けている方々がいます。本当にリスペクトです。そういう方々と連帯して生きていきたいと思います。でも、正直に今の気持ちを言えば、もう、疲れました。こんな世の中、日本に生きていたくない、死んでしまいたい、という気持ちです。今、死んでいないのは、子供がいるから、子供たちがいるからというだけの理由にすぎない。子供たちのまなざしの前で、情けないまねはできないというやせ我慢だけで生きています。
 「子供たちの前で」ということに関連して。今年、3月11日の関連活動として上映されていたドキュメンタリー「生きる大川小学校津波裁判を闘った人たち」をやっと見ることができました。新宿ケイズシネマで限定上映されていました。石巻市立大川小学校で起きた3月11日の悲劇はご存知でしょうか。地震発生後から津波到達まで51分の時間がありながら、校庭に子供たちは留め置き続けられ、ラジオや行政無線で大津波情報が伝わっていたにも関わらず、「津波が来る!裏山へ逃げよう!」という子供たちの叫びを教師や大人は無視し続け、全校生徒7割に相当する74人の児童(うち4人は未だ行方不明)と10人の教職員が亡くなった、あまりにもむごい事件です。このドキュメンタリーは2022年に上映されましたが見ることができずにいました。全編にわたってあまりに多くの教訓を含んでいる映画なので、この場で何かを語ることが到底できないのですが(見た方がいたらお話ししましょう)、一つだけ。このドキュメンタリーを見たいと思った強い動機の一つは、唯一大人で生き延びた教師、A教師の証言する姿を目に焼き付けておきたかったからです。良い意味で、ではありません。子供は4 名だけ助かりました。A教師は石巻市教育委員会が開いた第 1 回説明会の席上に現れ、「どうしても生き残った私が証言する責任がある」と歩くのもやっとな衰弱した様子で遺族の前に立ち、およそこのように証言しました。「全校児童を校庭に集め自分は残っている児童がいないか校舎を全て見て回った。校庭に戻ってきたとき、裏山は地震による倒木で危ない状況だった。そうこうしているうちに北上川たもとの小さな丘(三角地帯)に避難するということで動き始めた矢先に津波に飲まれた。自分は山側に打ち上げられ倒木に体が挟まれたが何とか抜け出し崖を這いずり、近くにいた児童一人にも声を掛けながらなんとか山を登った。」と。途中、A教師は机に突っ伏したり声が詰まったりして話せなくなる。わざとらしく大げさに介抱する校長や市教委の姿も映し出される。すぐ後に、このA教師の証言は「嘘」であったことがわかる。A教師は津波にのまれてはおらず、直前に裏山に逃げていたのです。裏山には倒木などなかった。A教師に同調した生徒一人も裏山に登って無事だった。A教師はその後二度と遺族の前に現れなかった。精神に変調をきたし精神病院に入院しているとも行方不明とも言われた。市教委は、生き残った生徒たちにも聞き取りを行ったが、「裏山に逃げよう!」と進言した生徒たちがいたこと。一緒にA教師と直前に裏山に登り難を逃れたことを証言したにも関わらず報告書には記載されず、聞き取りメモも破棄したと述べた。
 「たった一つの秘密、たった一つの嘘を守り通すためには、残る99は真実を述べなければならない。」とは誰が言ったか。これは罪であると思う。A教師が守りたかった秘密とは?自分一人が裏山へ逃げたこと......ひいては、全児童は守ることができた命であったということ。強要されたのかもしれない嘘とは?全ては仕方がなかったということ。「宿命」(石巻市長が遺族を前にこう述べた)だったということ。
 なぜ私たちは生かされているのか?己の良心を信じ、嘘をついてはいけない場面で絶対に嘘をつかない為である。生き延びれば良いというものでもない。子供たちの「まなざし」が永遠に私たちに向けられているのだから。(3/21 矢野剛司)

【2025年2月22日発行 No.93より】

 お米や野菜の価格が上がっています。東京新聞によれば(25年2月2日日曜版)、2024年11月の消費者物価指数でお米の価格は前年同月比で63.6%も上昇したということです。素朴な実感で言えば、いつもの2倍という感じですよね。野菜も同様です。「エンゲル係数」(食料費の消費支出に占める割合)は顕著に上昇しています。これは、私のような低所得者層にはもろに生活の貧困に結びつく事態です。日々の報道は、物が高いか安いかということだけを言っています。スーパーや八百屋さんの前でため息をつく消費者の映像を朝から晩まで流しています。もちろんこれは、事実ではありますが、一側面の事実ではある。報道の貧困を感じます。
 生産者側の問題があります。日本は、資源のない国です。食料から工業製品までものを作ろうと思えば、そのための材料や資材を輸入しなければなりません。農業で言えば、現在の慣行農法で使用する化学肥料や農薬はほぼ100%輸入に頼っています。有機農業や自然農でも肥料としてよく利用される「菜種油かす」は、コロナ前までは農協で約1,300円くらいだったと記憶しています。最近、農協で見たら倍の約2,600円になっていました。ほとんど「日清製油」のものですから、輸入物ですね。ちょっと脱線しますが、本来自然農がそういうものを肥料として使用するのは、かつて日本にはナタネの搾油の文化があって目の前で無理なく手に入れられる資材だったからです。米ぬかなどはまだかろうじてそのような意味合いを保っていますね。だから、自然農だから米ぬかと油かすしか使わない、などというのはドグマティックな物言いでよくないと思います。話を戻して。だから、油かすなども趣味ならまだ使用できますが、商いではもう無理でしょう。こういったことを、国における食料自給の安全保障ということで政策として農業の直接支援や保護を打ち出していればセーフティネットが働いたかもしれませんが、それがなければ生産者は価格に転嫁せざるを得ません。カロリーベースで日本の食料の自給率はわずか38%となっていますが、この原材料や生産手段までを含めた自給率は、なんと9%まで下がってしまという報告があります。これは単に生産者の問題だろうということで私たちは何も考えなくて良いのでしょうか?
 消費者側の問題があります。食料の安全保障の問題(飢餓)や豊かさの問題(貧困)などがあります。ちょうどホットな話題なので、お米のことを考えてみましょう。政府は、「お米は不作などなく供給量も落ちているわけではないので対応する必要はなし」と言ったとします。でも、現実は食料品店の棚にはお米がない、あったとしても一人一袋までなどと制限されたりする。制限はないかしれないが値段が倍ちかくになったりする。これが今起きている現実です。可能性として、一部の社会的な弱者はお米が全く手に入らず、一部の権力者か大金持ちしか手に入れられないという現象が起こり得るわけです(現実的な飢餓)。1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センは、供給量ベースで食料は足りていても飢餓は起こることを、インドのベンガル州の大飢饉の研究を通じて明らかにしました。飢餓が起きるのは供給量の不足なのではなく、それにアクセスする「権限」の剥奪状況に起因すると。それは経済的な権限であったり、「お米をよこせ!」と自由に言える権限であったり、今お米が足りない地域や人々がいるということをきちんと自由に報道する権限であったりするということです。
 では、仮にお米が一応潤沢、公平に人々の手元に渡っている状況があるとして、それで人々の暮らしの安全が保障されているとは言えるでしょうか?何らかの理由で料理ができない人がいるとしたら、お米だけ渡ってもそれを食べることはできません。また、料理ができる人であっても、電気やガスが止まれば調理器具が使えないのでやはりお米を食べることはできません。またまた電気、ガスが通じていたとしても、電気釜がなければご飯が炊けないという人も多いです。では、一応お米はどういう手段であれ、ご飯として食べることができたとします。しかし、それで暮らしは安全でしょうか?ご飯だけ食べられたとしても栄養的には全く不十分であり、健康的な生活を送ることは不可能でしょう。ビタミン豊富な旬の野菜も絶対に必要です。つまり、人が安全に暮らすために十分必要な栄養を確保できる食料たちにアクセスできることが大問題になってくるわけです。この目標にアクセスできないときに「貧困」がおきます。お米や野菜があったとしても料理が困難な人もいます。料理ができてもできる「環境」がなければ容易に飢餓や貧困は生じることは先に書きました。コンビニが前にあって、一応お弁当が買えれば豊かと言えるでしょうか?それでもやはり偏りが生じますし、災害が起き流通が遮断されれば一日のうちにお弁当は手に入らなくなります。そのような時に生活支援センターでは食事が取れる。知り合いや友人、福祉支援者と助け合える。顔の見える関係で応援している農家がある(ハコベのことです)。自分で家庭菜園している。これら全て、目標に辿り着くため方法や手段が様々で自由に選択し組み合わせることができる、その「幅」や選択の「豊富さ」を「豊かさ」とセンは呼びました。今、それを選択していなくても、状況や時が変われば選択しうるという意味で「潜在能力アプローチ」と言います。私たちは、この「潜在能力」を豊かにしなければならないし、私は別な言葉で勝手に「力能」(生きて幸せになる力)と言っていますが、これを強くしていかないといけないはずなのです。(2/18 矢野剛司)

【2025年1月20日発行 No.92より】

2025(令和7)年 年頭のご挨拶を申し上げます。
        精神保健福祉ボランティアグループかもめサポート 会長
        NPO法人ハコベ 理事長 矢野 剛司
 皆さまこんにちは。昨年の元旦は、能登半島沖での大地震から始まりました。今年の元旦は何事もなくすぎてほしいと願ったのは私だけではないと思います。
 新年早々からこういうことを言いたくはないですが、私達の暮らしは本当に苦しくなってしまいました。物価は大幅に上昇しているのに、賃金や可処分所得が上がらない状態は、「デフレ」でも「インフレ」でもなく、「スタグフレーション」(景気の後退と物価の上昇が同時に起きる状態)でしょう。まだ資本主義経済に「外部」があった時代は、その「外部」を取り込むことで総需要、景気を押し上げることが指向でき、こういった悪循環から抜け出す道があったと振り返ることができます。人々の希望や良心は、暮らしの改善や人々、家族の幸せに寄与することを願い、経済活動もそういった「良きもの」をベースに展開したとまずは言えたと思います。しかし、資本主義経済がこの「外部」を食い尽くしてしまった現在、行き場を失った「金」とその金の保持と増殖だけを考える人々が現在何を行っているのか?これ以上は、私が何か言うことはその任ではありませんが、私たちが手を携えて何を目標に活動していったら良いのかについて考える時は、避けて通ることができない「現状分析」かと思います。
 私たちは、人々の暮らしや幸せ、健康にとって「悪いもの」に加担することはできません。ただ、残念ながら悪いものは、悪いものとして私達の前に姿を現すことは絶対にありません。むしろ、絶対的に良いもの、良さげなものとして、あらゆる意匠を凝らして私たちの鼻先にぶら下げられます。また時には、いつもなら普通に判断し、正しい答えを導けることが、今は例外である、平時ではないと言い募られ、必要迫らざるものとして、またやむを得ないこととして私たちの考えや行動を強制的に変えようとする力もあります。
 私たちはすぐに間違ってしまいます。間違えさせようとする力がある以上は仕方がないことなのですが、自分だけが間違えるならともかく、他者やこれからの世代、子供たちに対して取り返しのつかない間違いをしてしまうことは避けたい。今私(たち)が持っている間違えない方法は、まず「立ち止まる」ことかと考えます。ほとんど方々は、誰かの何かの要請に従って動いていることでしょう。でも、何か変だ、おかしい、苦しいと少しでも感じることができたなら、いったん立ち止まって、じっくりと考える。立ち止まることを非難する人、じっと考えることやいったん保留にして相談することを考えることを非難する人とは、勇気をもって決別しましょう。
 私たちは、自分たちの為に、また未来の子供たちの為に何かをする「時間」が必要です。時には大手を振るって、時には密やかに、集まって話をする「時間」が必要です。誰のものでもない、私たちのための「時間」。それを作り出すことをまずは目標に、今年を始めたいと考えています。